なぜ人は加害者の味方なのか。

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私のこと

 わたくしの住まいでドアを蹴られる事例が発生。階下の人間の仕業とわかると管理人さんがいうには、

「あの人もかわいそうだよね。コロナで仕事減って鬱になっちゃったんだよね。かわいそうだよね。」

はあ? 被害受けてるの私なんですけど。

加害者の味方をする人たち

 たとえば、ロシアのウクライナ侵攻においても、「プーチンにも事情があるんだよ。」という声がある程度あります。やはり「被害者の方に問題がある」という考えがあるのでしょう。なぜ、プーチンの方が人気が出てしまうのか。それは加害者の自己主張の激しさにあります。人は目立つ者の味方をするものです。目立つ者の方が価値がある。陰と陽では陽の味方をしがちです。被害を受けるのはたいがいは自己主張をしない静かにすることを好むものです。そして被害を受けた時に激しく立ち回るので、「なんだアイツ、切れやがった、やっつけろ」みたいになるのです。

加害者は被害者

子供を虐待する母親。この場合加害者は親なのですが、よく言われるのはその母親も被害者であるということ。虐待を受けた母親はそのまた母親に虐待を受けていたり、子供の夫である父親からDVをうけていたりするものです。その母親のイライラはどうすればいいのか、そして最終的に自分より立場の弱い子供を傷つけるのです。加害者も被害者であるという理由があるのですが、弱い立場の物を傷つけてよいという理由にはなりません。

誰もがヒーローになりたい。

正しさを振りかざし、怪獣をやっつけるヒーロー。自分は正義であり、そうである者は悪である。悪はやっつけなければならない。この考えはある程度の人々の賛同を得ているに違いない。加害者の大半は正義感に満ちた子供のような存在である。それはつまりその人物は愛される人物であり得る。人々から称賛され人々は称賛する。加害者はヒーローであり、大衆の心をつかんでいるものである。そうなると少数は被害者の立場に追いやられて、いじめられる方が悪いという考えが多数の考えとなる。

平和は誰かの犠牲の上になりたっている。

今日も無事に過ごせるのは誰かの犠牲のおかげ。自分の運の良さにはおごらずに、日々精進。自己中心的にならず、相手の立場を考えることのできる多様性。怪獣が暴れていたら、「どうしたの」と声をかけて、問題解決。加害者もいなくて、被害者もいない。そんな世の中はたぶん大変。流されず、個人が強くあるということ。その反面、人は大衆でありたいし楽に生きたい。さらに加害者の味方である人たちは引き際もかんがえる。被害者が加害者になり、加害者もいつか被害者になる。しかし、加害者の味方はいつも加害者の味方なのである。

heiwa
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