芸能の本質
芸能はブームであり、後の世から見ると、芸能がない時代というのができているように見える。本当はないのではなく後世に作品が残らないか、刹那的な作品であった。またはその時代でしか受けず、次第に誰もやらなくなり忘れ去られていってしまうのも大半である。
観阿弥、世阿弥のころは、能は伝統ではなくて新作であった。なぜ能は流行ったのか?
能の起こり
日本にはいたるところに舞村があり、大陸から散楽が伝わり、神に舞楽を奉納する部落が存在していた。また、鎌倉時代の白拍子など芸能は身近なものであったと想像できる。その中、猿楽などサーカス的な要素で面白い物として、演者は成熟し観客をどんどん獲得していったと思われる。室町時代に入りそこで、やれば受ける定型的なものまねから、よりストーリー性を持たせた構成の能の枠組みができ、観阿弥は「自然居士」のような時間内に女の子を助けるというヒーロー物を作り上げた。仏教のテイストで主人公も修業の身である。信念は信仰心からくる。仏教の民衆への布教に大きく役立ったに違いない。このような時間が時系列通り進んでいく構成の能を現在能と呼ぶ。
原作となりうるコンテンツ
このころ、平家物語なども語り継がれ、まだ歴史というには人々の記憶に残る話も多かった。観阿弥の子世阿弥はその物語の舞台化に成功した。僧侶が名所、旧跡をまわり、そこに現れる霊の話を聞き、その僧侶により観客に伝えるという手法である。それによって、突然観客の前に霊が現れ世界観に取り残されることなく自然に物語の世界に入っていくことができる。これを複式夢幻能と呼ぶ。他にも源氏物語の舞台化、また、世阿弥自身がおすすめの「井筒」という能がある。「井筒」も複式夢幻能の形をとる構成で、伊勢物語を原作としている。伊勢物語二十三段に出てくる筒井筒の歌を芯に置いた作品である。待つ女の執念を描き、在原業平の魅力を伝え、そこから、在原業平を浮かび上がらせる原作を読んでみたくなる作品である。井筒という作り物である大道具が舞台に出てくるのであるが、時空を超える異世界への道のように効果的に使われている。
観阿弥、世阿弥、元雅 多様化する台本
その後、世阿弥の子、元雅が「隅田川」のような、日本的である能を作り、娘婿、金春禅竹によりファンタジー要素のある作品「芭蕉」「杜若」から、世阿弥の甥音阿弥家に覇権が移り、信光らの「紅葉狩」のようなスペクタクルな演目に移っていく。
芸能が残るためには、絶えず新しく面白いことをやり続けるか、普遍的なものを追求していくしかない。数々の演目が作られた能も、その後新作はあまり作られなくなり、普遍的なもの、改変され演じられ、残るものだけが残った。伝統芸能としての能として、能は生き続け復曲能など昔のものを演じられる機会も増えた。