大阪文化

 飽き症の私が、ずっと暮らしている町です。

大阪市歌とその魅力〜都市を謳う作詞家・堀沢周安

大阪市役所

大阪市歌をご存知ですか? 大阪市内の学校に通っていた方なら聞いたことがあるかもしれませんね。大阪市歌ができたのは今から100年以上前。大正10年のこと。大阪市の市政の中枢として中之島に新庁舎ができ、市民の街として新しい時代の夜明けを寿ぐようにこの大阪市歌が作られました。

1.大阪市歌の紹介

作詞:堀沢周安 作曲:中田章

1. 高津の宮の昔より、
よよの栄を重ねきて、
民のかまどに立つ煙
にぎわいまさる 大阪市、 
にぎわいまさる 大阪市

2. なにわの春のあさぼらけ、
生気ちまたにみなぎりて、
物みな動くなりわいの
力ぞ強き 大阪市、 
力ぞ強き 大阪市

3. 東洋一の商工地、
咲くやこの花さきがけて、
よもに香りを送るべき 務ぞ重き 大阪市、
務ぞ重き 大阪市

*著作権の保護期間を満了

2.市歌制定について

大阪市の誕生は明治22年。その時は府知事が市長の職務を行なっていました。大阪市は今の商工会議所の辺りから始まったのはみなさま、ご存知かもしれません。のちの明治31年に小規模ながらも独立の庁舎として江之子に移し、本格的な庁舎として大正10年に現在の位置、中之島移転しました。所属課として、大阪市に社会教育課が創設され社会教育の基礎が確立されまして、美術館、博物館、教育、民衆娯楽に力が注がれ大阪市歌制定に至ったのでした。広く市民が集まる時に歌える歌ということで、大正9年から公募が始まり、審査員には森鴎外、幸田露伴などの当時の有名人5名。応募歌詞2398首。一等当選したのは当時香川県三豊中学校校長でありました堀沢周安氏であります。

3.作詞家・堀沢周安について

堀沢周安は明治2年、明治維新の1年後に愛知県犬山市に生まれました。 向学心旺盛で当時の高等学校を卒業し、地元で学校の手伝いをし23歳の時に上京し、文学博士、上田万年のもとで国文学の勉強をしました。その後長野県や北海道、香川、愛媛などに教師として赴任し、当地で市歌や校歌をたくさん作りました。他、唱歌や歌集など合わせて135の作品が確認されています。 「田舎の四季」「明治節」の唱歌が有名なものとして残されていますが、作者不詳の唱歌の中に周安のものがあるかもしれません。 大阪市歌当選の時、周安は53歳、先述の通り香川県三豊中学校校長をしておりましたが、2年後には当時の知事が「県立中学校の校長は帝大出身の者にする」という方針を出し、周安は校長職を辞することになりました。その後も教師の傍、作詞家として活躍し、昭和16年73歳のとき、香川県善通寺市においてこの世を去りました。

4.市歌から読む堀沢周安のみた大阪

それでは、大阪市歌の考察をしてみましょう。 1番は大阪の歴史的な成り立ち高津宮、仁徳天皇時代からの長い時代の詰み重ねと、煙たつとういう縦方向の動きで表現されていまは仁徳天皇が詠んだされる【高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり】歌が元になっています。民のかまどの話で当時は小学校の教科書に載るほどの有名な故事でした。大正時代、東洋のマンチェスターと呼ばれた大阪に立っていたのは、煙突の煙です。しかし当時は公害や高化学スモッグなどはあまり考えることなく、立ち上がる煙は龍に通じ、縁起の良いものだったのでしょう。

2番は難波の波と動きと波動、大阪の気が表されています。大大阪の勢いが感じられます。

3番はさくやこの花という難波津の広がり、木花咲耶姫の昔から始まる繁栄が表されています。香りというものは古代から不思議なものでした。目には見えませんが、いつの時代も変わらず同じ香りを広げていく。「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」という難波津の歌と呼ばれるもので王仁が仁徳天皇の即位とのちの繁栄を祝い詠われたものです。 大阪市歌は当時の魅力、大阪の長い歴史と変遷を反映しています。 また作曲は早春賦で有名な中田章。ぜひ一度日本の懐かしい調べをお聞きください。

【参考】大阪市ホームページ 「市歌」

https://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/page/0000028864.html

参考資料
『明治大正大阪市史 第1巻 概説篇』大阪市役所編纂 日本評論社 1934年
『新修大阪市史 第6巻』新修大阪市史編纂委員会編 大阪市 1994年
『讃岐人物風景 18』四国新聞社編 丸山学芸図書 1988年
『善通寺市史 第3巻』善通寺市教育委員会市史編さん室編 善通寺市 1994年
『堀沢周安と大州』堀沢周安著 愛媛県立大州高等学校 1973年

2024年 大阪販売士 会報誌に寄稿した元原稿になります。

販売士協会寄稿
ことほぎて 大阪市歌
明治節 歌碑

なぜ、能は伝統芸能なのか

能面の画像

芸能の本質

 芸能はブームであり、後の世から見ると、芸能がない時代というのができているように見える。本当はないのではなく後世に作品が残らないか、刹那的な作品であった。またはその時代でしか受けず、次第に誰もやらなくなり忘れ去られていってしまうのも大半である。

 観阿弥、世阿弥のころは、能は伝統ではなくて新作であった。なぜ能は流行ったのか?

能の起こり

 日本にはいたるところに舞村があり、大陸から散楽が伝わり、神に舞楽を奉納する部落が存在していた。また、鎌倉時代の白拍子など芸能は身近なものであったと想像できる。その中、猿楽などサーカス的な要素で面白い物として、演者は成熟し観客をどんどん獲得していったと思われる。室町時代に入りそこで、やれば受ける定型的なものまねから、よりストーリー性を持たせた構成の能の枠組みができ、観阿弥は「自然居士」のような時間内に女の子を助けるというヒーロー物を作り上げた。仏教のテイストで主人公も修業の身である。信念は信仰心からくる。仏教の民衆への布教に大きく役立ったに違いない。このような時間が時系列通り進んでいく構成の能を現在能と呼ぶ。

原作となりうるコンテンツ

 このころ、平家物語なども語り継がれ、まだ歴史というには人々の記憶に残る話も多かった。観阿弥の子世阿弥はその物語の舞台化に成功した。僧侶が名所、旧跡をまわり、そこに現れる霊の話を聞き、その僧侶により観客に伝えるという手法である。それによって、突然観客の前に霊が現れ世界観に取り残されることなく自然に物語の世界に入っていくことができる。これを複式夢幻能と呼ぶ。他にも源氏物語の舞台化、また、世阿弥自身がおすすめの「井筒」という能がある。「井筒」も複式夢幻能の形をとる構成で、伊勢物語を原作としている。伊勢物語二十三段に出てくる筒井筒の歌を芯に置いた作品である。待つ女の執念を描き、在原業平の魅力を伝え、そこから、在原業平を浮かび上がらせる原作を読んでみたくなる作品である。井筒という作り物である大道具が舞台に出てくるのであるが、時空を超える異世界への道のように効果的に使われている。

観阿弥、世阿弥、元雅 多様化する台本

 その後、世阿弥の子、元雅が「隅田川」のような、日本的である能を作り、娘婿、金春禅竹によりファンタジー要素のある作品「芭蕉」「杜若」から、世阿弥の甥音阿弥家に覇権が移り、信光らの「紅葉狩」のようなスペクタクルな演目に移っていく。

 芸能が残るためには、絶えず新しく面白いことをやり続けるか、普遍的なものを追求していくしかない。数々の演目が作られた能も、その後新作はあまり作られなくなり、普遍的なもの、改変され演じられ、残るものだけが残った。伝統芸能としての能として、能は生き続け復曲能など昔のものを演じられる機会も増えた。

能
能の絵

梅シロップを作ろう!

5月は梅の季節! 梅シロップ飲んだことあるけどあれって難しいんでしょ~。たしかに! 失敗することもあるかもしれませんが、おいしい梅シロップの作り方のご紹介です。

梅って食べれるの?

梅って毒があるんじゃ。青酸カリなんでしょ。死んじゃうんでしょ。もしかしたら生の梅は毒になるかもしれませんが、あら不思議砂糖につけておくだけで無毒になるんですよ。でも種は食べるのはお勧めしません。けど。好きな人はいますね。毒とおいしい紙一重なのです。

梅って南高梅?

梅にもいろいろな品種があります。しかし、よく見るのは南高梅。しかし、お高いんでしょ。それだけ人気のブランドです。青梅とよばれるものもよく売られています。

梅シロップとは!

ビン+梅+氷砂糖  一週間で出来上がります。

梅もいろいろあるし、砂糖もはちみつをつかったり、黒砂糖をつかったり、グラニュー糖だったり。いろいろ、使えます。お好みで自分の味を見つけてください。

梅ですが、最初に竹串で傷つけたり、冷凍庫に入れておいたりして出来上がりを早くする方法がありますが、私は風味が変わるのでヘタを取るだけで砂糖とつめて放置するだけにしています。

えぐみを出さないために、梅は買ったらすぐ洗って一時間くらい水につけておく。

また、発酵するまえに梅を取り出し、他のビンにできたシロップを移し替えましょう。

失敗しない梅シロップ!

そうはいっても、梅シロップ。発酵したり、腐ったりといろいろ失敗があるみたいです。

失敗しないためには。

  1. 梅シロップは5月中に作ろう!
  2. 梅は青みがかったものを選ぶ(赤い色素は別)
  3. 小梅で作る。

これで、たぶん大丈夫。小梅は早い時には5月中旬から発売されます。

今年こそは「パープルクイーン」ゲットしたい!

小梅で梅シロップを作る動画

再び鳴り始めた「時の鐘」

なぜ、街の中に釣鐘が? 「大坂町中時報鐘」

 大阪中央区釣鐘町に、「時の鐘」といわれる、釣鐘がある。釣鐘の重さは3トン、高さ1.9m。「大坂町中時報鐘」である。しかし、1870年(明治3年)1985年(昭和60年)の115年間はこの地にはなかった。戻ってきたのは今から、35年前のことである。

時の鐘の歴史

時の鐘はいつできたのか。

 徳川家光が大阪に上洛した時、大阪の地子銀の永久免除を約束した。そのことを記念し、造られたこの鐘は約400年前の音色をそのままに現在に伝えている。
 1615年、大坂夏の陣に豊臣氏がほろび、大阪城は解体された。大阪は、徳川幕府により直接統治された。再び修築された大阪城の再建の普請により不景気に陥っていた大阪商人は、家光の免税に感謝し、1634年(寛永11年)、三郷の惣年寄等が評議して大阪に釣鐘をつくることを決定した。高価な時計を持たない庶民が、時間を知る方法は「時の鐘」だった。大阪の時報制度の始まりである。当時は暁の鐘の音で起き、不定時法と呼ばれる約二時間おきの鐘の音で時間を知る。

大阪のシンボル、活躍する時の鐘

 徳川の世をたたえるため「仁政の鐘」とよばれた「時の鐘」は四度の火災にあい、その度に鐘楼をなくしている。
 1660年(万治3年)、大阪城に落ちた雷により火薬庫が爆発、大阪の街に大きな被害をもたらした。それにより鐘楼は消失。鐘が残ったので再建された。
 1700年頃、大阪は「天下の台所」として栄え、元禄文化が花開いた。1703年(元禄16年)竹本座初演の人形浄瑠璃、近松門左衛門作『曽根崎心中』は大きな話題となり、有名な道行のシーンでは、「時の鐘」が演出に使われている。この近松の書いたセリフは大阪の「時の鐘」の価値を大きく上げたものである。
 1708年(宝永5年)に再び、道修町の火事により、鐘楼が喪失。再び鐘だけ残った。
 1724年(享保9年)大阪大火、妙知焼けにより、再び鐘楼が喪失。やはり、鐘だけ残った。
 1759年(宝歴9年)には時の鐘のあった場所に火の見櫓が完成する。
 1837年(天保8年)大塩平八郎の乱で起きた火災により、鐘楼は消失する。また鐘だけ残った。
 

時代の流れで不要となりさまよう時の鐘

1868年、明治維新により徳川の世が終わり、大阪府が設置される。しぶとく愛され、大阪の時間を告げていた「時の鐘」は、新政府の統治により不要となり、鐘楼は明治3年に撤去された。徳川をたたえる「時の鐘」は廃止され、近くの長光寺預けられる。時を知らせるのは陸軍の号砲となり、正午に鳴り響く空砲は「お昼のドン」といわれた。
 「時の鐘」はその後、1872年(明治5年)石町2丁目の江畔小学校に移動、さらに1875年(明治8年)最初に大阪府庁のあった跡地に建てられた府立大阪博物館に移動した。
 1926年(大正15年)大阪府庁が、江之子島より大阪城の西側に移転。大阪府庁新築の際、博物館にあった「時の鐘」が、府庁の屋上に設置された。その後、第二次世界大戦が勃発し、1941年(昭和16年)、太平洋戦争に突入する。行政より金属類回収令が出され、今は饅頭だけとなった四天王寺の大梵鐘も供出された。1945年(昭和20年)、大阪大空襲が繰り返され大阪を焼き尽くし、その夏、日本は終戦を迎えた。
 戦後、高度成長期。時はもはや、国が知らせるものではなくなった。誰もが時計を持ち、時間は個人のモノとなり、誰もが時を知らせる鐘の事を、遠い昔のことのように思っていた。

歴史的価値が見出された時の鐘、ふたたび


 1970年代に入り、「時の鐘」が再発見された。府庁屋上に設置されていた鐘の歴史的価値が見直されたのである。1971年(昭和45年)2月20日、大阪府有形文化財工芸品の第1号に指定される。1985年(昭和60年)6月10日、「時の鐘」は地元有志の努力によって、再び元の釣鐘屋敷の地へ戻された。この日は毎年「時の記念日」として、今も祭が行われている。鐘楼も新しくデザインされ、今はコンピューター制御により日に三回鐘の音を響かせている。
 時計が一般に普及してない時代は、鐘の音は時を知るための重要な音であった。時代において鐘の音は何度か不要となった。しかし、その度に誰が時の鐘を守り、今にその音色を伝えている。

参考文献

近松 門左衛門 著 祐田 善雄校注『曾根崎心中・冥途の飛脚 他五篇』 岩波文庫 1984年
原島広至 著『大阪今昔散歩』株式会社 中経出版 2010年
喜田川守貞『守貞謾稿』1837年 国立国会図書館デジタルコレクション
『大阪あーかいぶず第49号』平成28年9月 大阪府公文書館発行
堀井 良殷『なにわ大阪興亡記』PHP研究所 2013年
本渡 章著 著『カラー版 大阪古地図むかし案内: 江戸時代をあるく』2018年